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安東次男 CALENDRIER

「ある静物」十二月

 話は変わりますが、これをいま読んでいるあなたは、高校に時に「漱石ごっこ」というのをしたことはありませんか?
 突然振り返って相手を指さして、「精神的に向上心のないやつは馬鹿だ!」という遊びです。
 安東次男はこの「ある静物」で、読者に対して「漱石ごっこ」をしています。

 最後のところで、こつぜんと、「男」が登場します。
 「男」が登場する直前には、安東次男の狂句(=気分の飛躍)が見られます。ここでは文字上のスペースをあけてはいませんが、「人それを呼んで反歌という」よりは強い狂句です。
 前にも述べましたが、私が、安東次男の詩でもっとも魅力を感じるのは、この「狂句」の部分なのです。
 「人それを呼んで反歌という」(十一月)が詩についての批判だとすれば、この十二月は詩人についての批判なのでしょう。

 「ある鑑賞」のなかには、この詩と使われていつ言葉の上で、関連していると思われる部分があります。

 ・・・反対の意味を持つことばが、同じ発音と同じ綴字で表されながら、しかもその間に文脈の混乱を招くことがなかった。招くことがなかったどころかかえってそこにイメージの重層性を生み出すことによって、ますますその言葉を新鮮なものとして洗い立てていった・・・  (現代詩文庫 安東次男詩集「ある鑑賞」より)

 ここでは、「干し柿の成熟」が抽象論に陥って、自己撞着となってしまった詩人の心の状態を言っています。


抽象性にとらわれた詩人の脳みそは、言ってみればぶら下がった干し柿だ。
この十二月となっても、いまだに垂直にぶら下がっている。もうすこしの雨水と気温があれば、ひょっとすると干し柿としては熟することができたかもしれない、いや、もう手遅れだ。
詩人の脳みそはいまだにぶら下がっているそのところの古縄の先で、抽象的な言葉をこねまわすゆめをみるか、あるいは干し柿として食卓に載せられたら、と考えているのだろう。
脳みそは自分の表面にある皺をどうしようもない、と自分を責めているが、そうした皺も、干し柿の表面にある皺も似たものどうしで、詩の喚起するイメージはまさにそんな皺のようなもの、つまり皺の織りなす模様そのものに意味がある。ぶら下がった干し柿は、ときどきその模様にみとれたりはするが、
「猶もそれは本当の詩ではない、詩は抽象性 nature morte つまり 死んだ自然 を大切にしなければならない」と頑固に信じてやまない。
と、それはつまり、いまこの文章を読んでいるあなたのことなんだが・・・。

こんな詩人の一人を慌しい歳沓の中に認めたときひとは あの男は死んでいる と云う。


 ここでは狂句の部分に「と、それはつまり、いまこの文章を読んでいるあなたのことなんだが・・・」という文を挿入ました。
 前の「人それを呼んで反歌という」(十一月)でもふれましたが、安東次男の狂句に出会ったら、その詩のおかれている位置、性格上、叫ばれなければならなかった言葉を考えると、楽しいと思います。
 
 この詩は、安東次男の「漱石ごっこ」なのです。