安東次男の詩のなかで、私がもっとも魅力を感じる仕掛けは、「狂句」です。
すこし物騒な言葉ですが、「狂気」だとすこし強すぎます。、ほかに「跳躍」あるいは「飛躍」といってもいいのですが、なんといっても、
狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
があるので、そう言うことにしました。
具体的にいうと、それぞれ以下の引用した部分の直前のところです。
「蘭」では・・・、
世界じゆうが、不眠の夜、ひとり、眠りながら花開くという、蘭のはなしに、ひとびとが寄りあつまつて幼年のように打興じるのは、そんな夕べであつた。
「卵」では・・・、
そのような朝のひととき、暗い世界のうちら側をのぞき見しているやつはたれだ。染め上げた脳の切片をピンセットで挟むように、無意味なことをするやつはたれだ。しかし卵にははさむところがない、それは、父と子の朝の太陽のように大海のなかをころげてまわるのだ。
「残雪譜」では・・・、
そのとき光のなかで、不意に崩れた物質の輝き。自分を閉じながら、その錘のような形を、振りほどこうとしていたもの。私は、信じられない小鳥の屍骸を石のように握りしめたまま、暮れてゆく風景の中に茫然として立ちつくしていた。そのころ私は、まだ海というものをしらなかつたから、投げることを知らなかったのだ。
「人それを呼んで反歌という」では、二月と三月、十一月と十二月の内容、各章(各詩)の与えられている役割が比較的に明瞭なので、狂句のところで安東次男がなにを叫ぼうとしているのかわかります。
「蘭」でもわかります。
しかし初期や中期の詩、「人それを呼んで反歌という」の内部に配置されている詩では、正確な年譜をつくった上で検討しなければなりません。
私がもっとも魅力を感じる「狂句」について、そんな作業ができたら楽しいでしょう。
いつかそれができたら、と思います。