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安東次男 CALENDRIER

ブドウ膜炎の病理  安東次男の「蘭」


 ここでは、中期の傑作「蘭」を読んでいこうと思います。
 
 この詩をひと言でいうなら、ブドウ膜炎の病理・病態をそのまま詩とし、それに“途絶”を付け加えたものであるといえます。
 この「蘭」という題名ですが、これはブドウ膜炎によって周囲の組織と癒着し変形してしまった、黒目の形に由来しているのだと思います。

 この詩が意味していることは、ブドウ膜炎によって、黒目(虹彩)が“丸い花”たとえばひまわりのようではなく、ランの花の輪郭のようにひきつってしまった、ということなのです。

 まづは聞きなれない病気「ブドウ膜炎とは何か」となりますが、簡単にいえば、自己免疫疾患による眼球内の虹彩炎のことです。
 リューマチなどと同様、自分の免疫システムが自分を攻撃してしまうことによって引き起こされる、角膜(コンタクトレンズが乗せられる透明なところ)の内側にある茶色い黒目の部分(カメラでいう絞りに相当)の炎症のことです。
 ブドウ膜炎は、その炎症が目の前部(角膜、虹彩、レンズの側)でおきているか、それとも目の奥(網膜側)でおきているかで、前部ブドウ膜炎と後部ブドウ膜炎に分けられます。後部ブドウ膜炎もあるわけですが、「蘭」を読む上では不要なのでカットします。
 前部ブドウ膜炎を虹彩毛様体炎ともいいます。安東次男がかかったのは、前部ブドウ膜炎の方なのでしょう。
 虹彩とレンズのあいだで炎症がおこるとそこで癒着がおき、瞳が拡がるときに黒目の変形がおきます。これを虹彩後癒着といいます。

 今回は“途絶”のところを、「ブドウ膜炎に罹った人々がお互いの黒目(虹彩)をうわさしあっている。みんなの瞳は拡がるとき、丸いひまわりのような形にならずランの花の輪郭のような気味悪い形になるよ」と、安東次男自身よりすこし距離を置いて突き放したものとしました。

 この「蘭」を読んだ方はだれでも、「人それを呼んで反歌という」のなかの「球根たち」を連想されることでしょう。
 あの世にもうつくしい詩は、詩画集の中枢部に配置されており、幼年時代をうたった「残雪譜」ともつながっていて、まさに安東次男自身です!
 そう考えると、“途絶”のところも、「人々がお互いにうわさしあっている・・・」ではなく、
 “みんな、うわさしている! 虹彩後癒着で変形したぼくの黒目(虹彩)のことを! ひまわりじゃなくてランの花の輪郭みたいで気持ち悪い、と無邪気に言っている!”としなければならないのですが、そうすると表現がダイレクトになるので、やめました。

 アトロピンをなぜ点眼するかというと、これを点眼することによって、瞳孔を拡げて虹彩に安定を与え、虹彩のすぐ後ろにあるレンズとの癒着(虹彩後癒着)を防ぐためです。
 生理学的な現象として、レンズの調節能力(近くを見る能力)を失わせてしまうため、遠くしか見えなくなる、という現象がおこります。


ある日、人は突然、まったく突然、ブドウ膜炎となり眼を患った。
虹彩やら角膜の近くの炎症のため、瞳孔は針の穴のようにすっかり縮まってしまい、眼の奥までは光が届かなくなってしまった。
前眼部の炎症であったため、虹彩は破壊され、その色素をまとった細胞は赤色やら黄色をしていた。それが前房をただよった末に角膜の裏面に付着するのである。
眼科医は、人々の眼にアトロピンを点眼してまわった。
その点眼により、瞳孔は拡がり虹彩癒着は剥離して、またその発生は予防された。 点眼して一時間後、人々の瞳孔は虹彩の花のように大きく見ひらかれるであろう。
アトロピンは副交感神経麻痺薬なので、瞳孔括約筋が麻痺し瞳孔は拡がった。同時に毛様体筋を麻痺し調節麻痺もきたしてしまった!
だからレンズはふくらむことができず、薄くなって遠くの景色しか見えなくなってしまった。おかげで文字なぞというものは、見えなくなりすっかり忘れさられてしまいそうになった。

“ブドウ膜炎にかかったみんなの瞳孔は、丸くなく、引きつってしまって、まるでランの花のように不気味な格好をしている!”
人々は無邪気に、ブドウ膜炎で癒着をきたしたお互いの瞳孔の形について、観察しあい、うわさしあっているのだった。





 ブドウ膜炎の治療薬について、もろもろ・・・。


 前眼部が侵されるブドウ膜炎というと、ベーチェット病とサルコイドーシスがあげられるようです。
 ベーチェット病だけは治療法がすこしかわっていて、コルヒチンというイヌサフランからとられるアルカロイド(広義の意味での植物毒)を使います。
 コルヒチンは分子構造がとてもかわっていて、ベンゼンの六角形ではなく、七角形がふたつも合わさるような変な格好をしています。
 また、このコルヒチンはイヌサフランの「球根」から作られるそうです。
 コルヒチンがのちの「球根たち」六月とも関係があった、とは考えにくいのですが、なかなか興味を惹かれます。

 あとブドウ膜炎の点眼治療薬としてつかわれるアトロピンですが、これも点眼薬を、静脈注射用のと比べると、なんと20倍近い濃度となっています。
 “媚薬”として有効かもしれません!