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安東次男 CALENDRIER

「道化」四月

 この詩「道化」四月は、安東次男による“安東次男の蕪村論の手引き”です。

 とにかくこの詩は難攻不落で、安東次男の“蕪村論”を読まないとわからないようにできています。その蕪村論は、いわゆる“離俗論”や、“新体詩”をまったく指向していません。この詩は「人それを呼んで反歌という」と同じような構造をもっているのだろう、と考えてしまうと、混乱をきわめることになります。
 また21行目から29行目をどう読めばいいのか、という問題もあります。
 あと『春風馬堤曲』についての解釈も前提としているのですが、それはそれで大きくなりすぎるので、別のページで述べたく思います。

 その安東次男の蕪村論なのですが、いくつかの特徴があるように思えます。

1.まずは、『澱河歌』を、浪花に愛人を残していたかもしれない老いた蕪村の女体幻想だとして読んでいることです。

2.安東次男にとっては、なんといっても、フランス語の「イメージの重層性」という感性を、日本語にどのように移植していくのか、ということが気になるようです。
 安東次男にとっては、芭蕉も蕪村も、そうした感性を日本語に持ち込むための容器にしかすぎません(! ←ほんとうにそうです!)。
 芭蕉においては、その連句が三句にわたる場合に「イメージの重層性」をとらえようとしていたのですが、蕪村においては、時間あるいは空間認識の異なるふたつのイメージが、ひとつの思考のなかに同居しようとする瞬間に、それを「イメージの重層性」としてとらえようとしていたのだ、と思います。
 そして、時間・空間認識が異なるふたつのイメージのことを、“遅速”といったり、“緊張と弛緩”といったりしています。
 当然ながら、以上のことは蕪村が“画俳”であった影響が大きいと考えています。

3.それで、いわゆる「離俗論」や「新体詩」、さらに蕪村の連句(の付け合い)については深く追求しません。

4.そして、ここがもっとも面白いところなのですが、安東次男は、言葉以前のシンボリックな性の表現に触発されることがありません。
 言葉を持たない乳幼児がまわりの世界を認識しているようには、ふるまえないのです。寓話の世界、そうした性表現の世界に入ることができないのだと思います。
 安東次男は『澱河歌』を、浪花に愛人を残していたかもしれない老いた蕪村の女体幻想だとして読んでいます。
 でも私にとっては、『春風馬堤曲』こそ、それ以上にシンボリックな性表現に満ちあふれ、緊密な構成を織り成しているようにみえます。

 たとえば、“春風”とは思春期を意味しているようにみえます。
 内腿から流れた血液は、初潮をあらわしているようにみえます。
 中間で唐突に出現する牝猫と雛は、言語を獲得する三才時期の精神的不安定さをあらわしているのだと思います。そこよりさらに進むと、乳幼児の世界に入りこみ、時間の感覚も記憶もなくなります。
 『馬堤曲』は、ある一人の大人の女に仮託して、まず思春期へ。
 そして思春期から言語を獲得する三才児の世界へ、さらにそれ以前の乳幼児の世界へ、そして、まだ生まれ出でぬ世界へと逆行(退行)していく物語のように読めます。
 退行(逆行)とは何か、またそれにどんな価値があるのか、と疑問に思われるかもしれませんが、たとえば性行為は退行そのものです。

 性の倒錯とは、言語以前のシンボリックな性の表現を利用した、ヒトの一種の擬態なのだと思います。
 安東次男はそうした『馬堤曲』の性の表現様式に触発されることはありません。それはある種の感受性の限界を示しているのだと思います。
 安東次男は、三才児以下の乳幼児がしているように世界をみることはできないし、そうした表現も不可能なのでしょう。
 以上のことは、「道化」四月の21頁以下の解釈に役立ちます。

5.そして意外に重要な点なのでしょうが、安東次男は、蕪村の思考は、結局は“日常性”のなかに帰ってくる、と考えているようです。

以下、4.を除く上記の蕪村論の特徴について、著作集のなかより根拠を引用しながら、この詩「道化」四月に当てはめてみました。
 先ずは 2.についてですが、この詩のキーワードは、6行目にあらわれる“弛緩”と、14行目にあらわれる“遅日”だと思います。
 芭蕉連句とは異なった仕方で、「イメージの重層性」を蕪村の句のなかにみようとしているようです。
 そしてその6行目と14行目に挟まれる感じで、“昼の中に昼を持つ目と夜の中に夜を持つ目は・・・ぜつたいにまじわらない単音だ”とかなり強い表現がなされ、芭蕉と蕪村における「イメージの重層性」のとらえ方の差を強調してみせます。
 冒頭の、“色彩の興奮”や4行目の“一本の線”、5行目の“幼年の”は、読者を“蕪村”へと導入させてしまうためにしつらえられた仕掛けとなっています。

 これらの句では、それが色彩ではなく線の面白さとして蕪村の写意に映っているのだが、その線を他の在りようを許さぬ案外な強さで想像中に引いている蕪村の心理を追って、自分でも一つの線を引いてみたくなるところが、私には蕪村句を読む楽しさの一つである。   (『安東次男著作集』第四巻 110頁)

 以下、“弛緩と緊張”、および“遅速”に関係していることを『与謝蕪村』(『安東次男著作集』第四巻)より引用してみます。

 現代フランスの詩人フランシス・ポンジェのように、さまざまな速度とさらにフォルムとがつくりだす精巧なメカニズムを、雨の中に見ることになる。「ばねが緩むと、しばらくはまだいくつかの歯車が動き続けるが、それもしだいにのろのろとなり、ついで仕掛けが止まる。そのとき太陽がもいちど顔を出せば、一切はすばやく消えて失くなる、輝くこの機械は蒸発する、つまりもいちど雨が降ったのだ」・・・(中略)・・・問題は、一つの観念が具体化されてゆく過程に含まれるあらゆる運動の遅速(弛緩と緊張と云ってもよい)にある。そしてそういった遅速の中の物質の本性を、作者がどのような材質によって捉えるかである。私自身、浅水の催馬楽歌や芭蕉の句は好きであるが、やはり、エリュアールやポンジェの詩の方が親しいし、・・・(中略)・・・そういう目が蕪村のこの句を、かえって面白いと見させるのである。   (『安東次男著作集』第四巻 58-59頁)
 すこし話しはシフトしてしまいますが、安東次男のエリュアールの詩の理解の仕方にについては、この引用のすこし前に配置されているので、それを読むとよくわかります。  安東次男にとっては、芭蕉も蕪村も、フランス語の学習を通じてえられた「イメージの重層性」や「言葉の物質感(言葉とイメージの堅固な結びつき)」の感性を、日本語に持ち込むための容器にしかすぎません。

 とある雨の日の水晶は(≒窓硝子)は いつも
 愛撫のけだるさの中で鳴る と私が言えば
 君たちは私を信じ 愛撫の時を延ばす

 cristal (水晶)とは散文的に読めばたぶん窓硝子のことであろうが、そういってしまってはこの詩の良さはなくなる。これは男女の性の喜びの…それも物質的な(un jour de pluie 「とある雨の日」とはこのばあい二人の肉体と精神の融合がつくりだす一種のシンフォニーと考えてもよい)…結晶のイメージでもあるわけだ。相愛の情況に応じて、cristal は、窓硝子とも、雨滴とも、泪とも、唾液とも、あるいは精液とも、変貌するであろう。そしてその無限の可能性の中に、cristal はcristal 以外の何物でもない硬質の輝きをもつ。これほどの透明な愛の表現はいかにもエリュアールにふさわしいものだが、さすがに画人蕪村のすぐれた目も、これと同質のものをみているところがある。   (『安東次男著作集』第四巻 56-57頁)

 二もとの梅に遅速を愛す哉 の句に関しては、

・・・そのとつ追いつ、往きつ戻りつしながら、己れの心と重ねて仔細に枝ぶりを点検している画俳の目が、「遅速」を発見した。早咲と遅咲の梅を、一望に収めて庭前一幅の景をたのしんでいるのではない。画人蕪村の目に、「遅速」は時間の先後としては映っていない。「遅い空間」と「速い空間」として映っている。その二つの空間がつくる静寂の均衡には、目にもとまらぬ力の対峙も息づいていよう。「南すべく北すべく」の自由奔放な用筆が、その筆勢を落すことなく細筆に移行したとき、たとえば「遅速」というふうな認識が生まれてきた、と考えてもよい。   (『安東次男著作集』第四巻 75-76頁)

 遅き日のつもりて遠きむかしかな、の句に関しては、

 「遅き日」は、遅日、永き日、日永と同じ、三春の季語であるが、この句のそれは初春などではあるまい、晩春にふさわしい。また、日永が冬の日の短さがめっきりと永くなった実感をいうのに対し、日暮れが遅くなったと感じる気持ちの方に重点があることはいうまでもあるまい。・・・「つもりて」とは、同じ一つの情緒、同質の時間が積重なっているのではない。それぞれに違った貌(時間)をもった故人(追憶)が、遅日の共感の下に集まっているのである。    (『安東次男著作集』第四巻 242-246頁)

 ここなどまさに、時間・空間認識の異なるふたつのイメージがひとつの思考のなかに同居しようとする瞬間に、それを「イメージの重層性」としてとらえようとしています。

 現代詩文庫の中の、詩集<CALENDRIER>定本に隣接して収録されている評論「ある鑑賞」の最後におかれた“夕露や伏見の角力ちりゝ゛に”の解釈に関しては、

 この句の「ちりゝ゛に」には、緩急二通りの動作のイメージがおのずから重層的に重なり合って観客の散る速さ遅さ、露の散る速さ遅さが、心憎いまでのリズミカルな運動を伴って、入り組んだ一種の画像として読む者の目に映らずにはおかれぬところがある。   (現代詩文庫『安東次男詩集』「ある鑑賞」)

 とあります。

 蕪村の“涼しさや鐘をはなるゝかねの声” (『著作集』四-186頁)にいたっては、ふたつのイメージがひとつの思考のなかに同居しているだのなんだのではなく、時間・空間そのものを操作してしまっています!

 2.についてですが、蕪村の連句に関する記述として、先ずあげられるのが、“牡丹散て打ちかさなりぬ二三片”です。
 でも、芭蕉連句であれほどまでに執拗に追求された、付け合いに関する記述はここにはなく、

 「牡丹散て」の句を現代ふうに読めば、たとえば私にはヴァレリの Le vent se leve, il faut tenter de vivre (風立ちぬ、いざ生きめやも)という詩句を想わせる。繊細と勁さ、軽さと重さ、静と動との微妙に映発し合う陰影の深さがある。それが土の上に軽くゆだねられている花片から生動する気韻であるところが面白い。   (『安東次男著作集』第四巻 195頁)

 のように、対立するふたつのイメージが思考のなかで同居している状態について考えることに熱中しているようです。

 蕪村の連句については、他に同著192頁にて、“冬木だち月骨髄に入夜哉”が脇句をともなってふれられていますし、211頁で、“夕月や水青鷺の脛をうつ”について章をあらためて言及されています。
 また218ページにて、“身の秋や今宵をしのぶ翌もあり”、“かなしさや釣の糸吹秋の風”についてその第三までふれられていますし、
 しかしどこをみても、連句の付け合いに関する記述はありません。
 付け合い以外の、いわゆる“離俗論”や“新体詩”に関する記述についても展開がみられません。

4.については、これだけでかなり分厚いものとなってしまうので、ページをかえて「『春風馬堤曲』のなかの牝猫と雛」にて記述します。

 安東次男の蕪村論を読んだあとで思い当たることがあるのですが、それは「みぞれ」、「白魚」の頁で述べた、彼の“フェティシズム”という言葉の使い方についてです。  安東次男は「開花期の思想」のなかで、しきりに“フェティシズムからの開放”について触れていました。この場合の“フェティシズム”とは、<言葉が人の心にイメージを喚起する過程>を阻害する要因のことです。

 そのころ私は不図したことからたまたま、自分の苗字に興味を持って、これを象形的な印象に仕上げてみたいと思った・・・(しかし)・・・この詩を得ることによって、印象に惹きつけられてゆく私自身のフェティシズムから逃れることができたのである。  (『現代詩のイメージ』「開花期の思想」 106頁)

 安東の「東」という漢字が、「日」の字を、あたかも「木」や「↑」が貫いているかのように見えることを例にあげ、漢字のような表意文字は、場合によっては表象性が強すぎて、その言葉の本来の意味や、イメージとの結びつきを希釈させてしまう、と述べています。
 この場合は、漢字の「表象性」が“フェティシズム”となっています。
 ふつう“フェティシズム”というと、だれか異性が身に着けていたものに、その異性全体を象徴させるような行為でしょう。
 でも安東次男のいう“フェティシズム”とは、<言葉が人の心にイメージを喚起する過程>を阻害する、“象徴を利用した認識”のことになってしまっているかのように見えます。そうしたことを意識しながら、『「春風馬堤曲」新釈』をあらためて読むと、なにか、言語以前の象徴を利用した認識方法を拒絶しているかのようにも読めます。

 「道化」四月の5行目にみられる“幼年の”とは、これも『春風馬堤曲』に読者を導入させる、というよりは“蕪村論”に導入させるための言葉としてとらえました。

 引道具ノ狂言座元夜半亭と御笑ひ下サル可ク候。
 実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情ニて候。

 一読、「馬堤曲」は帰郷しての作でないことがわかる。幼年時の記憶にもとづくフィクションと読まなければ、右の文章は奇妙にもつれてしまう。たまたま毛馬に帰郷して見かけた情景を一篇の詩に作ってみたが、本心は自分の懐旧の念にある、と蕪村はいっているのではない。「やるかたなき」懐旧の情を、幼年の日の一記憶に託して詠んでみた、といっているのである・・・(中略)・・・そういうふうに考えてくると、「馬堤曲」を読むということは、一字句の解釈にとどまるのでなければ、蕪村の句画のすべてに映し出された心を、読取る作業にわたらざるを得まい。   (『安東次男著作集』第四巻 133-135頁)

5.については、

 「南すべく北すべく」とは、そうした一人の男(家長というべきか)の心弾みである。どうせ妻子を振捨てての漂泊など適わぬと知っているから、近くの野径一つ歩いても、想像の行脚はかえって途方もなく伸びる。   (『安東次男著作集』第四巻 75頁)

 陶淵明の「桃李堂前ニ羅ナル」に共感しながら、「人生ハ幻花ニ似テ終ニ当ニ空無ニ帰」する式のものには、蕪村はついにならなかった。自由な道をあれほど縦横に描きながら、けっきょく、

 桃源の路次の細さよ冬こもり

 という市井の生活に帰ってくるしかなかったようだ。   (『安東次男著作集』第四巻 179-180頁)

 にて示されています。

 私は安東次男ではないので、私の考え方をこの詩に“途絶”としてつけてしまうことは、禁じられています。
 でも…、「私は大人の寓話に立ち入ることはできない」と、“途絶付け”してしまいました!

蕪村は画俳なので、視覚的な効果がその句にも反映される。
なんといっても、時間あるいは空間認識の異なるふたつのイメージが、ひとつの思考のなかに同居しようとする瞬間に、その効果が発揮される。
私はここにも、「イメージの重層性」の感性と様式を発見したのだ。
私は芭蕉の連句の付け合いの感性と様式のなかにも、それを発見してはいたが、でも蕪村となると、画俳だけあって決定的にその様式が違う。
私は『澱河歌』を、浪花に愛人を残しているのかもしれない、老蕪村の女の身体についての幻想として詠んだ。
ふたつの河が合流する風景を、女の身体に見立てたのだ。
そんなときでも私の視線は、静脈をとり扱う外科医の視線となってしまう。
『春風馬堤曲』についてはそのなかに、蕪村のすべての句画が存在していると考えている。なぜなら、ある女の心に託したふうにしてつくられてはいるものの、幼年の日の一記憶にたち返って詠われているのだから。
ある意味で、作家のすべては幼年の日々のなかにある。

私も幼年の日にたち帰った。
でもその途中、突然出現する牝猫と雛の寓話について考えることはなかった。
もっと象徴のはっきりしている、少女の初潮の寓話について考えることもなかった。
母と一体化した子供の寓話について考えることはなかった。

私の女を見つめるときの視線は、女の腰のくびれに壺のくびれを重ね合わせるようにして、とても即物的である。

   私は大人の寓話に立ち入ることができない。