冒頭の「氷柱」を読めば、安東次男は認識の限界や境界についてふれようとしているのだな、と誰でも感じることでしょう。
詩に関する認識にしても、限界あるいは境界が存在すると言っているのです。
しかし「氷柱」では、それが限界なのか、単なる境界なのか、それとも少し異なったたとえば映画のスクリーンのようなものなのかは示されていません。
「氷柱」の最後のところで、
・・・不透明さということにたいする若干の嫉妬の気持ちもあつて透明だといつたり溶けることにたいする頑固な期待もあつて氷つているといつたりするのだがそれがどんな反応を期待することになるのかじつは自分でもよくはわかつていない
境界の奥にあるものの価値を、疑問視しているかのようです。
そして、境界を通りぬけようとしているのか、壊そうとしているのか、限界としてあきらめているのかも示されてはいないのです。
「人それを呼んで反歌という」を読むうえで、鍵となる評論がいくつかあります。
最大の鍵は、「人それを呼んで反歌という」に隣接して収録されている「ある鑑賞」です。
この評論のなかで安東次男が何度も繰り返しふれているのは、「イメージの重層性」と「言葉の物質感」です。
・・・かれらは、自分の使う云い廻しについて、具体的で堅固なイメージを構成するから、読者をして上下か左右かの判断を迷わせることはありえない。
・・・反対の意味をもつ言葉が、同じ発音と同じ綴字で表されながら、しかもその間に文脈の混乱を招くことがなかった。招くことがなかったどころかかえってそこにイメージの重層性を生み出すことによって、ますますそのことばを新鮮なものとして洗い立てていったということは、一つの語のもつ堅固な物質感を、一文脈の中で明快に浮彫りする自信なしには・・・
・・・もちろん私が云うのは、一比喩のことではない。詩人の明晰さとは、イメージの重層性によってそうした比喩を拒否するところにこそある。
(以上、現代詩文庫 安東次男詩集「ある鑑賞」より)
私は、安東次男が「氷柱」でふれている境界は、この「イメージの重層性」のことではないかと思います。
また「ある鑑賞」の5年くらい前に書かれた評論「開花期の思想」のなかで以下のような態度が示されています。
一体、詩とはイメージそのものが独立した批評であるべきものである。そうした批評を本来的に内在させない詩は、すでに詩ではないし、また正しいイメージをもつことはできない。
(現代詩のイメージ「開花期の思想」 116頁)
以上をふまえ、この「氷柱」を読んでみましょう。
冬になると豊かな毛並みをし、その下に柔軟な皮膚をもつ獣たちがいる。
毛は彼らの皮膚の表層に、びっしりと生えているのだ。
これと同様、人はある言葉に接したときに、その豊かな毛並みにも似た「多義的で重層的なイメージ」を思い浮かべることだろう。
そしてそれを通りこしたもっと深いところに、たとえて言うならば皮膚の裏側に、言葉の抽象性といったものが存在している、と考えるかもしれない。
しかし、そのようなものは存在しない。
あえてあるとすれば、le vierge, le vivace, et le bel aujourd'hui といった発音に関する情報などだ。
これは、偶像にひたすら祈りを捧げているような、「痛み」といってもいい誤解なのだ。
あるはずのないものを実在していると考えるから、「不透明だ」といったり「凍っている」などと曖昧なことをいうのである。
ここで、「重層的なイメージ」の更に内側にあるものを「抽象性」としましたが、なぜこのような言葉にしたかは、「十一月を読む」のところのページ、また廣松渉の「存在と意味」のページで述べます。
また、外壁と内壁のメカニズムで、一月、二月、三月、十一月、十二月のメカニズムについて、シェーマによる説明を試みました。
次の「みぞれ」ですが、この「みぞれ」と「白魚」で、限界あるいは境界について詳しく語られます。