安東次男の詩で、私がもっとも魅力を感じる仕掛けは、“途絶”です。
魅力的なのは当たり前です。
“途絶”こそ、安東次男という“神の瞳”がまばたきする、その瞬間だからです。
この“途絶”は、文章と言葉の精密な<解体>能力があってはじめて成立する様式で、安東次男の詩のなかにしか存在しません。
高島俊男氏が、「アンツグという人は、批評眼、あるいは批評のカンばかりが畸形的に肥大した宗匠だから・・・、(高島俊男 『本が好き、悪口いうのはもっと好き』 206頁)と指摘した、その“批評のカン”と強い関連をもっているし、『芭蕉七部集評釈』、『風狂始末』三部作の評釈の方法とも、共通部分があると思います。
私は、安東次男が俳諧の評釈上みせる<理解→解体→再構成>というプロセスと、詩の“途絶”でみせるプロセスは、基本的には同じことだと考えています。乱暴な言い方をすれば、安東次男がしている“評釈”なるものは、“途絶付け”なのです。
そしてこのプロセスのもっとも核心的な部分である<解体>は、高島俊男氏の指摘する“批評のカン”そのものなのだと思います。
安東次男の詩の“途絶”を読むとき、また評論に“批評のカン”を感じるとき、それは“神の瞳”のまばたきを見ているのです。
まず“途絶”という表現ですが、本当は「安東次男の狂気」とか「至高の暴力装置」としたかったのですが、これでは表現が直接すぎるでしょう。
ありふれた言葉にして「跳躍」、軽やかに「気分転換」、すこし凝るならば「切断」、それをおとなしくして「栞」、そこで叫ばれようとしている言葉のことを考え「狂句をはさむ」、その他「いないいないバァ」(?)などいろいろ考えたのですが、やはり「途絶」がいいと思います。
「人それを呼んで反歌という」十一月、「ある静物」十二月、および「蘭」では各々の頁ですでに紹介済みです。その他の安東次男の詩の“途絶”は、以下の引用した部分の直前のところに見られます。
まず、「卵」では・・・、そのような朝のひととき、暗い世界のうちら側をのぞき見しているやつはたれだ。染め上げた脳の切片をピンセットで挟むように、無意味なことをするやつはたれだ。しかし卵にははさむところがない、それは、父と子の朝の太陽のように大海のなかをころげてまわるのだ。
「残雪譜」では・・・、そのとき光のなかで、不意に崩れた物質の輝き。自分を閉じながら、その錘のような形を、振りほどこうとしていたもの。私は、信じられない小鳥の屍骸を石のように握りしめたまま、暮れてゆく風景の中に茫然として立ちつくしていた。そのころ私は、まだ海というものをしらなかつたから、投げることを知らなかったのだ。
「鎮魂歌」でも・・・、存在たちの影と 幼児の笑い声 そして 蓋のない壜の口から 溢れおちる水たち それに手を触れるな! (現代詩文庫『安東次男詩集』)
の それに手を触れるな! の前のところもそうなのでしょう。
それまで語っていたことを<解体>して拭い去り、もとから念頭にあった言葉を<再構成>させ出現させています。
『芭蕉七部集評釈』の評釈上でみられる<理解→解体→再構成>のプロセスを、国文学者の立場から“負”の部分として指摘しているのが、松田修氏です。指摘は『安東次男著作集』第二巻の月報「手帖Ⅵ」に収録されている批評「古典学と新古典学」でなされています。
「もう一つの構造を志向した構造としてのシナリオ」という把握が可能であるかぎりにおいて、俳諧とは、「もう一つの詩(句)を志向した詩(俳諧)」であるといっていいだろう。
そして、安東氏の解釈とは、この付合関係における構造のアナロジーとして理解しうるだろう。「もう一つの詩(安東氏による解釈)を志向した詩(去来の、凡兆の、芭蕉の、おのがじしの句)としての俳諧」。
芭蕉-蕉風俳諧とは、安東氏の跳躍(評釈)のための長い助走であるといえよう。これは明らかに一種の倒錯である。作品があってはじめて批評=評釈が存在する、そんな芸術の秩序なり序列なりが、解体されている。安東氏の評釈なり古典学なりは、そのような病理性をはらむまでに透徹して高いのだ。 (月報「手帖Ⅵ」 『古典学と新古典学』 松田修)
去来や凡兆や芭蕉は、300年以上も後に出現するある男に対して、その詩(あるいは批評の…。彼の場合、そこにそもそも区別なんか存在しない!)の素材を提供していた、と言っているのです。
まさしく、その通りなのでしょう。
そして、安東次男は前の句を読んで解釈を行い次の句との関連性をみているのではなく、前の句に安東次男の句を“付けている”と述べているのです。
もしもシナリオを例えにあげるならば、それは舞台において演じられるということを前提として作られているわけですが、舞台演出家がシナリオに基づき、舞台の構成を考え、振り付けと俳優への演技指導をしていくのとおなじような態度で、前の句への“評釈”を行なっている、というのです。
松田修氏はこれを“倒錯”、“病理性”、もっとはっきり“欠陥”などの強い言葉で表現しています。
もっとも、否定的なことばかり述べているのではありません。
極端にいうならば、安東氏の評釈が成立するまで、「芭蕉七部集」は存在しなかったということになる・・・・・「冬の日」であれ「猿蓑」であれ、「炭俵」であれ、それは安東的評釈、評釈をしての詩になろうとしている詩ではないのか。安東氏のような激しい個性、透徹した知性、無比の直感、至高の詩性、稀有の文章力を兼備した後人の出現をまって、はじめて、あるべき形に形成されるのではないか。
俳諧という予定調和的な芸術を、測鉛し、解晶し、再構成する、極めて高次元な場に氏は立っている。 (月報「手帖Ⅵ」 『古典学と新古典学』 松田修)
俳諧がそれだけでは完結しようのない不完全な芸術であると仮定すると、舞台演出家のような態度で解釈されない限り、そもそも“評釈(=詩)”とはなりえないこと、また安東次男の評釈では、俳諧の<理解→解体→再構成>という極めて困難なことが実行されていて、これは安東次男以外のだれにも実行することは不可能だとも述べています。
“前の句に安東次男の句を付けている”ことについては、安東次男自身も以下のように語っています。
付けるということは、具体的な一解釈を提示することである。それを、縁語や意味にたよらず、ことばそのものの表情の中から取り出して数語で以て示すということは、言語使用の伝統的約束の上に立っても、なお至難のことに属する。『猿蓑』の連句が踏み入っているのは、そういう厄介な道である。芭蕉の「物の見えたる光いまだ心にきえざる中にいひとむべし」とは、その覚悟の表現であったろうが・・・、 (『安東次男著作集』第三巻 86頁)
松田修氏が指摘した“倒錯”、“病理性”、“欠陥”は、『芭蕉七部集評釈』を読んでいてしばしば感じられますし、『風狂始末』三部作では、さらに鮮鋭に現われています。
詩を読もうとすると、詩以降にかかれた『芭蕉七部集評釈』や『風狂始末』三部作を読んでそこに引用先をもとめなければならないということも、松田修氏が指摘したこととはまた別の意味での“倒錯”なのかもしれません。こう考えるのは、私の奇矯なのでしょう